ほっとひと息

● 実験潰瘍と私

 私の日本実験潰瘍学会デビューは、確か1979年だったと思う。卒後5年目で大学院の3年のときのこと。ちょうど、プロスタグランディン(PG)の研究がうまくいき、データが出始めた頃である。AndreRobert(フレンチカナディアンでロベールと発音する)博士がGastroenterologyに、外因性PGが有するユニークな作用を発見し、このPGの作用をサイトプロテクションと名付けて発表した(1)のと同じ年に当たる。あとでその論文を見つけて大きな衝撃を受けたのを鮮明に覚えている。その発表(もちろん、私のではなくRobert博士の発表)が、世界の潰瘍学者をセンセーションの渦に巻き込み、実験潰瘍学の歴史を変えたことは、その後に発表された、サイトプロテクションに関する天文学的な論文数に象徴されている。

念のためにサイトプロテクションの概念を思い起こしておきたい。Robert博士のオリジナルによると、純エタノール、0.6規定塩酸、0.2規定 NaOH、100℃の熱湯などの壊死惹起物質により、瞬時にして強烈な胃粘膜傷害が惹起されるが、これをごく微量の外因性PGがほぼ完璧に抑制する現象に対してサイトプロテクションという用語がはじめて用いられた。この作用はシメチジンやプロバンザインなどの酸分泌抑制剤には認められないこと、酸分泌抑制作用のないPG類にも認められること、また、酸分泌抑制作用のあるPGであっても、酸分泌抑制量を遙かに下回る(1/100量)量でも認められることか ら、酸分泌抑制に依らない作用であるとされた。

 私は、大阪市立大学医学部第三内科に研修医として入局し、人間の体内を直接内視できる内視鏡の魅力に取り憑かれた。というよりは、学生時代に臨床実習で第三内科を回ったとき、野球部の先輩がちょうど内視鏡検査をしておられ、かっこよく見えたことが印象に残っており、そのときすでにその兆候があったのかもしれない。いずれにせよ、内視鏡を通して胃を観察しているうちに、潰瘍などの病変の神秘以上に、強烈な胃酸がちゃぷんちゃぷんしている胃に、なぜ病変のない人があまりにも多いのか、ということに感銘を受けた。そして、その理由を突き止めたいという衝動に駆られたのである。

 攻撃因子と防御 因子の天秤説は、潰瘍の発生機序を説明するものとして、その当時から有名であった。しかし、これが、潰瘍発生機序ではなく、潰瘍が発生しない機序の説明に主眼をおいた論説であることはあまり知られていない。これは、「人は、学者といわれる人でも、執筆にあたり、往々にして引用に引用を重ね、あまりオリジナルを読んでいない」とよく苦言を呈されていた小林絢三先生(現名誉教授)の受け売りである。すなわち、小林先生は、Shayのオリジナルから、この説が、胃の恒常性維持の機構、すなわち胃粘膜防御機構に主眼を置いたものであることをすでに見抜いておられたのである。


  さて、2年間の研修を終え、私は大学院に行くことにした。このように書き進むと、研究意欲に駆られた純粋な動機のように見えるが、実はそうでもなかった。私に向学心がなかったわけではないが、試験管を振る生活は、私が想像していた医師像とはかけ離れたものであった。町の臨床医として、患者さん相手の日々の臨床に手を染めたかったことは事実であった。ただ、小林先生の魅力に触れ、この人について行こうと決めて大学院に行くことにしたのである。しかし、正直な ところ、一生研究を続けることなど夢にもありえないと思っていた。

 当時の第三内科は山本祐夫先生(現名誉教授)が主催される消化器内科であり、肝臓が主流であった。消化管は小林先生(当時講師)がヘッドであったが、当時の教授への気配りもあって、免疫で接点のある炎症性腸疾患、胆道でつながっているVater乳頭部の機能異常など、肝臓と接点のある消化管の研究が進められていた。私は胃に興味を持ったが、幸か不幸か胃の研究はなされていなかった。そこで、恐る恐る小林先生に、胃粘膜防御機構に関する研究を大学院のテーマにしたいと申し出たところ、案外あっさり許可がもらえた。今から思うと、内心喜んでくださったのかもしれない。

 さて、胃粘膜防御機構の研究をするといっても、いったい何をしたらいいかさっぱりアイデアがわかない。胃研究グループといっても実質1人で、当然研究室もない。その頃、胃潰瘍患者で難治性のため、治療に苦労していた人の主治医であったが、このようなケースでは、潰瘍辺縁での血流が悪いのではないかと想像されていた。ところが、組織血流測定の手段は、実験的には交差熱電対法というのがあったが、臨床で行える手段がなかった。

 
そこで、内視鏡下に粘膜血流を可視化できないだろうか、という発想に至った。眼底検査に蛍光眼底検査というのがあるが、これを応用してみようと思いついた。しかし、いきなり患者さんに実施することはできない。どうしても動物での実験が必要である。私は、とりあえず、実験スペースを物色することにした。
 
私たちの教室は、本館(今は18階建ての新病院に変わっている)の最上階、3階、それも建物の一番奥にあった。3階から屋上へ上がる階段は、教室のスペース内にあり、ほとんど誰も昇降しない。その階段の端には、手すりに沿ってずいぶん昔の組織標本が、ホルマリンに漬けられて無造作に並べられている。踊り場 は物置と化し、ほこりまみれの書物が山積みになっている。ここしかない、と私は直感した。


  そのスペースを片付けて、あらためて結構広いことがわかった。そこに、廃棄になっていたストレッチャーを運び込み、犬の手術台にした。ぼろシーツでカーテンも付けた。胃研究グループ実験室の落成式。新実験室の主人兼執事である私は、ストレッチャーに腰をかけてビールの栓を抜いた。

 
次の日から実験に取りかかった。まず、麻酔をかけた犬に胃内視鏡を行い、局注針で粘膜下に酢酸を注入して酢酸潰瘍を作成した。動物舎から、麻酔をかけた数匹の犬を「実験室」に運んでくるのはひと苦労だった。動物舎から本館に入り、暗い長い廊下を進むと地下1階のエレベーターにたどり着く。このエレベーターが時代物である。まず、呼びボタンがない。エレベーターが止まっている(と思われる)階まで階段を徒歩で上り、エレベーターに乗って、持って降りなければならない。運転は手動式である。運が悪いときは、エレベーターのある階にたどり着いたとたん、エレベーターが(先着の誰かによって操作され)逃げてゆく。それを追いかけてまた走らなければならない。だから、地下1階にエレベーターが扉を開いて止まっているときには、小さな幸せを感じたものだ。


  このような、実験にいたる苦労を重ねながら、その後、経過を追って蛍光内視鏡検査を行った。蛍光色素のフルオレスセインを静注すると、なんと、活動期では、まるでコロナみたいに、潰瘍辺縁からリング状に真っ先に蛍光が出現することがわかった。治癒が良好に進む人工潰瘍では、潰瘍辺縁の粘膜血流が増強していることを示唆する所見である。これを、臨床にも応用し、難治性潰瘍では潰瘍辺縁での蛍光の出現が遅延することがわかり、予後の判定に有用であることが やっと証明できたのである。

 ところで、この研究と平行して、胃粘膜防御機構を生化学的にとらえたいという考えから、粘液産生にかかわる分子として、細胞内シグナルであるcyclicAMPの測定をはじめだした。そして、それに関連して、その上流のリガンドとしてのPGに行き着いたのである。

 
私の研究の立場は、胃の恒常性維持の機構を解明することであり、結果的にその破綻が病態につながるというスタンスである。したがって、組織中で産生されるPGを、さまざまな病態で測定し、正常と比較する手法で真実に迫りたいのである。ところが、ここで大きな壁にぶつかった。測定したいのは胃粘膜中のPGであるが、粘膜を筋層から剥がすのにどうしても機械的刺激が加わってしまう。このことにより、PG産生は膨大となり、結果として測定されたPG含量はもはや、知りたい病態を反映するものではなくなってしまうのである。

 PGの産生を刺激せずに粘膜を剥離する方法。そのキーワードは「凍結」と「瞬時」、それに「粘膜層完全剥離」であった。「凍結」だけなら簡単だが、凍結した状態で粘膜層だけを削り落とすのは至難の業である。試行錯誤の末、2枚のスライドグラスに胃壁を挟み込んで、-20℃のヘキサン中で瞬間凍結すると、凍結した胃壁にスライドグラスが固着することがわかった。そこで、この2枚のスライドグラスを強く引き離すと、一番弱い粘膜下層を境に、粘膜層がじつにきれいに筋層から完全剥離でき たのである(2)。このときは本当に歓喜乱舞した。
(図1)

 これで強固な壁を打ち破ることができた。胃研究グループにも後輩が集まり出し、非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)投与、水浸拘束ストレス負荷、四塩化炭素惹起性肝硬変などの病態時における胃粘膜PGの測定を、実験的に(2-7)、また消化性潰瘍や肝硬変時などでの検討を臨床的にも次々に行い、このような病態では胃粘膜PGが欠乏状態にあることが証明できた(8-10)。この手法は、剥離のとき「パコン」と音がするので、ちょっと大げさに、また、大阪的に仲間うちで自然と「パッカン」と呼ばれるようになった。正式には「凍結下粘膜剥離法」というが、誰もその長ったらしい用語を使わない。「パッカンの 用意しといて」といった具合である。

 1979年の日本実験潰瘍学会のデビュ-戦は、ちょうど「パッカン」が確立し、粘膜PGのデータが出始めた頃だったのである。正確には、実はその頃は本会はまだ学会ではなく、実験潰瘍懇話会と呼ばれていた。いまでもそうだが、当時はもっとシビアで、本当に実験潰瘍学にひたすら打ち込んでいるマニアック(?)な精鋭が一堂に会し、厳しい議論を飛び交わしていた。同級生の蝶野君が一緒に演題を出していた心強さも手伝って、意気揚々と乗り込んでいった(はずだった)が、私は、発表の順番が近づくにつれ、心臓が口から飛び出そうなほどバクバクするのを感じ、できれば逃げ出したい、という思いにかろうじて抵抗するのが精一杯であった。


  「懇話会」とは名ばかりとわかっても後の祭り。そういえば、直接師事していた小林先生(当時講師)が「厳しい研究会やぞ」とおっしゃっていた。私は「望むところです」と鼻っ柱だけは高く戦場に向かったが、どんな風に発表し、どんな質問があってどんな風に答えたのか(もしかすると答えられなかったかもしれない)まったく覚えていない。思い出さない方がいいのかもしれない。ところで、これに懲りずに、この後、ほとんど毎年この会に演題を出してきたのは、やはり、厳しいながらも非常に建設的な意見をもらえる学会であったからだと思う。それどころか、1980年には、性懲りもなく、東京で開かれた国際実験潰瘍学会で発表するという大胆な行動に出てしまった。当時、海外には旅行で数回行った程度で、もちろん留学経験ゼロ。駅前留学さえしていない。発表は何とかごまかせたが、案の定、質問がさっぱりわからない。やまカンで適当なとこ ろを答えたつもりだったが、やはりかなりズレていたような雰囲気だった。
(図2)
しかし、その会に出席してすごく良かったのは、それまで、超一流の英文誌を通してしか知らなかった超有名な研究者と、じかに出会えたことである。 Robert博士の顔を見たのも、それが初めてであったし、初対面なのに非常にフレンドリーに話しかけてくれたのは二重の感激になった。
(図3)
また、ポーランドのKonturek教授やロスアンジェルスCUREのGuth教授なども参加されており、まるで、ハリウッドでクリント・イーストウッドやマリリン・モンロー(ちょっと古いか)に出会ったような感じがした。

 
その4年後、消化器病学会の最高峰である米国消化器病学会(AGA)で初めて発表することができた。国際実験潰瘍学会は4年に1度で、ちょうど、東京の次に当たり、ニューヨークのAGAに引き続いてボストンで開催されたのを覚えている。そのあと、なんとあのサイトプロテクションのRobert博士をアップ ジョン研究所に訪問する機会を得たのである。

 どういういきさつでそうなったかよく覚えていないが、とにかく、降ってわいたような幸運に恵まれたものである。カラマズーという田舎町に着いたのは、もう夕方近かった。Robert博士から、3人目だったか4人目だったかの、学校の先生をしているという奥さんを紹介され、自ら分厚いステーキを焼いてくれた。見ただけで胸やけしたが、好意なので受けないわけにいかない。何とか半分、おいしそうな演技でたいらげた。半分はレタスの下にそっと隠しておいた。しかし、あのストレス学説のSelye博士の秘蔵っ子であったRobert博士を、そんな子供だましでごまかせると思ったのはあさはかだった。

さて、明くる日に一緒にRobert博士の研究室に行ってみると、びっくり。先に来ていた研究助手の人が、おそらく前もってRobert博士から指示を受けていたのだろう、「パッカン」の準備を整えて待っていたのである。「この場で実演せよ」ということなのだ。論文には書ききれないノウハウがあるので、論文に忠実に実施してもうまくいかないことがある。たぶん、試してみてうまくいかなかったのだろう。私が、何の造作もなく見事に「パッカン」をやってのけたので、Robert博士も感激してくれた。「パッカン」元祖の面目躍如である。その後、Robert博士が出した“adaptive cytoprotection”に関する論文には、この手法で測定した粘膜PGのデータが含まれている。

それ以来、Robert博士とは親しくつき合わせていただき、後輩を留学に導くこともできた。残念ながらもう他界されている。逝去されたときは、日本人のバイオリニストが奥さんで、おそらく5番目くらいだったかな。一番長続きしていた。どの奥さんも(といっても私は2人しか知らないが)美人というわけではないが、どこかピカッと輝くものをもっておられた。ジョークの好きなRobert博士だったが、天国でもジョークを飛ばしてみんなを笑わせていることだろう。
 実験潰瘍を通じて、国内国外を問わず、幾多の著名な研究者と出会うことができた。国際的には、米国のTarnawski教授、Szabo教授、ドイツのPeskar教授、カナダのWallace教授など、多くの人たちと交流ができた。また、広く普及しているさまざまな実験潰瘍モデルを考案された岡部進教授、サイトプロテクションの機序としてユニークな説を提唱した同じ京都薬科大学の竹内孝治教授をはじめ、臨床の学会ではなかなかお会いできない、国際的な日本の研究者の方と接する機会は、このような学会以外にはない。PhDの厳しい研究に対する姿勢が伺われ、刺激を受けるとともに非常に勉強になってきた。これも、実験潰瘍懇話会の創始者である梅原千治先生のお陰であり、 実験潰瘍学会が、もう一つ大きな役割を果たしたのは、本当に日本の若い消化器研究者を育てたことであろう。昔、我々が一番苦手だった英語が、当たり前のように話せる人が多くなった。国際的になったなと感じる。やっと、当たり前にやってきたことが、当たり前に話せる時代が来た。また、その後、長く本会の理事長として、本会を学会にまで高められた松尾裕先生のご努力の賜であると感謝いたします。実験潰瘍万歳!

文献 1.Robert A, Nezamis JE, Lancaster C, et al: Cytoprotection by prostaglandins in rats. Prevention of gastric necrosis produced by alcohol, HCl, NaOH, hypertonic NaCl, and thermal injury. Gastroenterology. 77:433-43 (1979)

2.Arakawa T, Kobayashi K, Nakamura H, et al: Effect of water-immersion stress on prostaglandin E2 in rat gastric mucosa. Gastroenterol Jpn 16:236-241(1981)

3.Kobayashi K, Arakawa T, Satoh H, et al: Effect of indomethacin, tiaprofenic acid and dicrofenac on rat gastric mucosal damage and content of prostacyclin and prostaglandin E2. Prostaglandins 30:609-618 (1985)

4.Gitlin N, Ginn P, Kobayashi K, Arakawa T: The relationship between plasma cortisol and gastric mucosal prostaglandin levels in rats with stress ulcer. Aliment Pharmacol Therap 2:213-220 (1988)

5.Arakawa T, Satoh H, Fukuda T, et al: Gastric mucosal resistance and prostanoid levels after cimetidine treatment in rats. Digestion 41:1-8 (1988)

6.Arakawa T, Tarnawski A, Mach T, et al: Impaired generation of prostaglandins from isolated gastric mucosal surface epithelial cells in portal hypertensive rats. Prostaglandins 40:373-382 (1990)

7.Arakawa T, Tarnawski A, Mach T, et al: Increased susceptibility to injury and normal reactivity to prostaglandin cytoprotection of mucous cells isolated from portal hypertensive rats. Prostaglandins 46:397-405 (1993)

8.Arakawa T, Watanabe T, Fukuda T, et al: Indomethacin treatment during initial period of acetic acid-induced rat gastric ulcer healing promotes persistent polymorphonuclear cell-infiltration and increases future ulcer recurrrence: possible mediation of prostaglandins. Dig Dis Sci 41:2055-2061 (1996)

9.Arakawa T, Satoh H, Fukuda T, et al: Endogenous prostaglandin E2 in gastric mucosa of patients with alcoholic cirrhosis and portal hypertension. Gastroenterology 93:135-140 (1987) 10.Arakawa T, Nakamura H, Satoh H, et al: Deficiency of endogenous prostanoids in gastric and duodenal ulcer diseases. J Gastroenterol Hepatol 3:441-449 (1988)