ほっとひと息

● 私が消化器病の研究に魅せられたわけ

いよいよ医師としての第一歩を踏み出すことになった日。1975年5月だ。患者さんから求められる、良き医師になることに燃えて、所属を許された大阪市立大学第三内科病棟に意気揚々と上がった。が、詰め所には看護婦さん以外誰もいない。少し早すぎたかな、と思い、しばし待つも病棟は閑散としたままで あった。

 病棟過疎病院。これはあとでわかったことだが、大学病院に働く医師はほとんど研究にいそしんでいるのだった。医局に戻ると、そこは麻酔注射に抵抗している犬の鳴き声と、お腹に何やら突っ込まれながら安らかな眠りについているネズミ、それに向き合う多数の医師。私は第一歩にして、モティベーションを失った。

 医局の制度を聞かされて、生意気にもそれに逆らったのは、多少モティベーションが残っていたのかもしれない。制度というのは、研修医2年目には研究の道に入ること。試験管を振れ、ということである。

 それには抵抗した。しかし1人では心細い。そこで蝶野という同級生と手を組んで、共同戦線を張ったのである。批判を受けながらも何とか臨床一筋で卒後の2年間を過ごせたのも蝶野のおかげである。

 問題は、そこでだ。そんなにべたな(大阪弁で申し訳ないが、標準語には適切な言葉がない。近い意味では、泥臭い、heart to heart、心の通った、あたりか)臨床をしたいと燃えていながら、なぜ、消化器病の研究に手をそめるはめになったのか。私は2年の研修医のあと、こともあろうに大学院へ進んだのである。
 
その発端は、人との出会いである。それは小林絢三先生(当時講師、現名誉教授)であった。小林先生には申し訳ないことであるが、決して研究者としての先生をリスペクトしたからではない。そもそも、当時は研究のいろはも知らなかったので、小林先生の研究者としての偉大さを知るよしもなかったのである。

 それは、ある東京での学会へ、私と蝶野は、若輩であるにもかかわらず、参加させてもらえたときのことだ。名前は忘れたが、公共施設で門限のある安宿である。そこで、酔っていたせいもあるが、私と蝶野で小林先生に散々噛みついた。

 「研究と称して患者さんに苦痛を与えている」とか、「研究して患者さんの役に立つのか」とか、うだうだと朝が明けるまで、生意気に食ってかかっていた。間に入っていた中堅クラスの方が一番消耗されたと思う。

 
そのとき、小林先生は、私たちの不満を包み込むように根気強く聞き入れてくださり、研究というものの価値を切々と教えて下さった。何回もいうように、当時、研究など「へ」とも思っていなかった私たちが、小林先生の解説で突然研究に目覚めたということは200%ありえない(小林先生が、あの説明が私たちを 変えたと思っておられるとしたらどうしよう)。

 私が、その後大学院へ進もうと思ったのは、研究心というものは昔から持っていたことはあるが、あの一件で、私たちのような訳のわからない輩に親身になってくれた小林先生に惚れたからで、この人にし ばらく付いて行こうと納得したからである。研究との出会いというよりは、人との出会いでこうなった。でも、ここまで永く研究生活を送るとは夢にも思わな かったが、良い選択ができたと思っている。

 研究生活に入ると、これがすごく楽しくなってしまった。まず、実験結果が思い道理に出ても、逆に意外な結果でも、ポイントを突いていれば発表に対して参加者から必ず反応があること、それが世界中に通じること、そして国内はもとより、国外の研究者との交流が楽しいこと、などである。とくに、一流誌で名前しか見たことがなかった有名人とも、しばらくすると友達みたいになれ、通じ合わないジョークなど交わして、たとえ30%しかわからなくても楽しい。

 さらに、私の性に合っているのは、大学の研究生活はクラブ活動の延長という感覚だからだ。営利を目的とせず、敵をやっつけるために腕を磨き、力の限り戦い、戦いが終わった瞬間にお互いの健闘をたたえ合う(ラグビーのno side)。そして、必ず美酒!

 
人生は楽しい方がいい。そして、楽しい人生は自然流にある。肩に力を入れず、消化器病の研究に、自分の運命を委ねてみるのも、一時期として考えればいいのではないか? 何よりも自分を引っ張る力を信じること。そして、将来、後輩の牽引力になること。これは、消化器病の診療・研究に関わらないグローバルな生 き方として推奨したいし、自分自身、それを目指したい。乾杯!

(第45回日本消化器病学会大会記念随想集「消化器病の診療研究に思うこと」
寺野 彰編、メディカルレビュー社、東京、2003年10月、p40-42に掲載)